安喜万佐子 Masako Yasuki


‘heat under the ground (地の熱)’
テンペラ・油彩
120cmx360cm 2015年


trans(pyramid#1)

個展 ‘LANDSCAPE SUICIDE’
アートコンプレックスセンター・東京会場風景
2014年


overlap #6

‘pine woods (松林図)’
映像とのコラボレーション
胡粉・顔料・金箔
90cmx600cm 2012年



‘March Light / White Shadow –the
photographic record is made by the
“winners”
(白い影 / 三月の光 — 記録はいつも「勝者」
のもの)
テンペラ・油彩
100cm×160cm 2015年


re:trans #18

'Momentia'
テンペラ・油彩
170cm x 300cm
2013~2014年


re:trans #43

'exposed scapes - childhood tree -'
胡粉・顔料・金箔
63cm×75cm 2008年


「光の趾音」−light treading the ground—

キャンヴァスの池に張る氷のように、視覚のざわめきが掬い出される。
安喜万佐子は「絵」は描かない、描くのは絵の「隠喩」である。

木下長宏(近代芸術思想史)

上の言葉は、11月17日から始まります galerie16 での個展に寄せて、近代芸術思想史の木下長宏氏より頂戴したものです。現代の「画家」として取り組むべき仕事の、ひとつの重要な側面が浮かびあがってくるようで、身の引き締まる思いですが、このテキストの背景と解釈を、木下氏は、次のように述べておられます。

幸田露伴の言葉に「西洋の思想が煉瓦を一つずつ積み上げて行くような構造を持っているのに対し、東洋の思想は、ちょうど池に氷が張るように、池のあちこちから、ポツポツと凍りだし、そして、池全体に張りめぐらす、それは西洋の論理学とは別の論理を隠している」というようなことがある。それが安喜万佐子の「絵」の方法であり、また、その「絵」は、一般に考えられている「絵」とはちがう。
安喜万佐子の「風景」が、一般に考えられている「風景」とはちがい、「風景」をめぐる様々な問いを仕掛けながら逆ベクトルでたちあがってくるように、あるべき「絵」というのがあるとすれば、そういう「絵」は比喩的にしか見せることができない、そういうものなのだ、「絵」であって「絵」ではない、「絵」について考える「絵」なのである。

私が関心を持ってきた「風景」とは、全て地球上の実在する場にまつわるものであるとともに、「社会」や「環境」「自然」「畏れ」と言い換え可能な世界の総称です。
意識とは無関係かつ無情な現実として刻々と突き進む「風景」。時に優しく包みこんでくれるようでありながら、不穏なまでに社会の意図を映し出す「風景」。
地の熱の上に生き、光の下にあることを思い出す瞬間、ヒトを含めた全ての事物が、「人間的」意思や感情などとは徹底して無関係な平等なる存在として浮かび上がってきます。そんな、事物の意味とヒエラルキーを寄せ付けない地平から物事を捉え直してみることが、この時代に改めて求められているようにも感じます。
短期的利害と人生単位を越えた不可視の時間、違う場所からみる、違う時間から思考するための想像力を開くドアを作ることができればと考えています。

安喜万佐子


[Interview]


撮影:伊藤治美

-描かれている「風景」は全て実在する場所ですか?
安喜:はい。全て、地上のどこか、調べれば住所や緯度で説明のつく「実在」の場です。北半球が多いですが、地球上の様々な場所を取りあげてきました。生活したことのある場所、歴史的意味を付された場所、旅の途中に通過した場所、樹海のような山奥、東西南北の区別のつかない一面の草原や砂漠など様々ですが、私自身の身体が踏み入れた場所ばかりです。「消失した都市」のシリーズは、都市の記憶と時間の層を切り口にしたものですが、その地の地面をフロッタージュして回ったりもします。海外の街で地面に這いつくばってフロッタージュをしていると、街の人たちが話しかけてきて、戦前のその街の写真を見せてくれたり、昔話を聞かせてくれたりということもあり、他の人の「記憶」が作品に入り込んでくるような… そんな面白い経験もします。

-「風景」に関心があるのですね?
安喜:学生時代に、通学中の下鴨神社の糺ノ森で、強い光に晒された樹とその強烈な影を映す地面に何故か立ち止まったことが始まりです。モノがあること、身体があること、ものを「みる」ことの無限の不思議、それらを乗せた世界について…何か、大事なことのシッポみたいなものとの出会いでした。
その後も、たまたま旅や移動の多い人生となりましたので、世界と身体、場所と記憶(個人の記憶と集団の記憶)、ヒトが「日常(と信じている場)」で使っている脳や身体が機能不全になるような畏れをもつ場所、または「風景」に潜む社会の意図 …と、関心が深まっていきました。
また、近年は「風景」という近代語への関心を深めています。「風景」というのは「landscape」の翻訳語として明治近代に成立した単語ですが、人間が世界と対峙し、切り取って眺め、分析しながら自然を切り開くことを基点とした概念である西洋の「landscape (地景)」とは違い、東洋で「山水」や「景(かげ)」という概念で捉えていた世界観を、僅かながらに残そうとした葛藤を含んだ単語であると私は捉えています。ここ数年は、そこへの関心に突かれるように作品をつくってきました。今年、文化庁新進芸術家派遣制度でアメリカのボストン近郊の東洋文化の研究機関で研修の機会をいただきましたが、東洋美術に現れていた自然観を外からの視線を通じて再考することで、現代の社会に有効な視座を改めて取り上げることができないかと考えたからです。

-テンペラを使うことについてのお考えは?
安喜:西洋顔料をはじめ日本の岩絵の具や泥絵の具、さらには、描く場所で採集した鉱物を砕いたものを絵の具とし、近代以前の手法としてテンペラを描画に取り入れて来ました。これは、〈絵画〉の色彩を、名前のある概念としての色ではなく、その顔料の物質構成へと還元させようとする冒険のようなものです。
この、色彩の原質に還元して描写するという関心事からの展開で、近年は、日本の金壁画で用いられる繊細な金箔を使うようになりました。金壁画では、順光時と逆光時において様々な姿を見せることをひとつの特徴とするように、その空間に生きる身体の尺や動き、時間の移ろいを取り込み、二度と同じ姿を見せる瞬間はありません。
現在は、そういった近代以前の東洋的自然観や身体観を取り入れた現象と向き合う空間を作る事に、更なる関心を展開させています。
と同時に、言うまでもなく、描くこと、つくることは人間の「技術」に過ぎません。「技術」が世界にかなうことはないということの自覚を、描きにくいテンペラは、いつも私に教えてくれます。


安喜万佐子展・「光の趾音」−light treading the ground− は、2015年11月17日~28日、京都東山のgalerie16で開催されます。

幅3mを超える大作3点を含む、10数点を展示予定です。テンペラ、油彩の他、近年取り組んできた岩絵の具や金箔を用いた作品も出品します。
2015年の文化庁新進芸術家派遣では、ボストン近郊のアメリカにおける東洋文化研究コミュニュティーの中で、多様な角度から、改めて、現代に活かせる東洋文化的視点(特に自然と人間の関係の捉え方)と、その絵画をはじめとした技術やその背景にある哲学の受容のされ方を、外からの目線で捉え直す機会を得ました。近作は、この体験から受けとったものが大きく影響しているように感じられます。
ご高覧賜われますよう宜しくお願いいたします。