渡邊佳織 Kaori Watanabe


秘匿のデバイス


焦点


小さい子


私を愛したけもの


山のあなた


〆(寸法改)

ヒロインの残像

創作者の制作の根源について、生い立ちや幼少期の文化的体験との関わりはしばしば指摘されるものだが、私自身の場合も自分の作品制作において思い返すに、ある女性との出会いによる多大な影響は否定できないだろうと自覚している。

それは、私がまだ12歳ほどの時分(1995年頃ではないかと思う)に見たとても美しい女性のことだ。

当時26歳の彼女は、軽やかなベリーショートのヘアスタイルをしており、体躯は細身で華奢な印象を与えていた。眉尻がやや下がり気味の優しい顔つきながら瞳はシャープで力強さがあり、下唇が少し厚めなところがまた魅力的だ。
彼女は夫と六歳の息子との三人で平和に暮らしていたが、少々複雑な過去があり、それ故か笑顔になってもどこか翳りを帯びていて、しかしそれが彼女の美しさに奉仕しているようにも思われた。常に俯き気味の頭の角度も含め彼女の姿は幼い私の頬と額を度々熱くさせた。
いつからか私は夕方学校から家に帰る頃に彼女の姿を憧憬の思いで見蕩れることを日課としていた。

そんな中、ある時から彼女の顔つきはとても剣呑としたものになった。
目は光のない深海のようになり、台風前の曇天より重苦しい気配を放つようになったのだ。(それでも不思議と綺麗だったのだが)

実は、彼女の最愛の息子が何者かの手によって命を落としてしまうという事件が起きた。
その上、彼女は密かにその犯人(親しい人間だった)を見つけ出し刺殺、という報復まで果たしていた。

嫌疑をかけられるも一時は不起訴になるなど紆余曲折を経て、ようやく彼女が逮捕された場所は上高地の山岨(やまそば)だった。
彼女は、駆けつけた刑事に全く抵抗することなくむしろ自ら腕を差し出し手錠にかけられた。
白いスリップだけを身に付けた状態でだ。

上高地の冷気により小刻みに震える彼女の露な上肢に、およそ似つかわしくない金属の輪が掛けられ錠がかかった瞬間、瓦解するように彼女の顔は今までの険しさがほどけ、何かから解放された穏やかな表情に変わった。
解放とはいえ、その重苦しい過去を脱ぎ去った訳ではなく、全てを受け入れようと諦めた(明らかに見極めた)顔だ。
彼女の全てが、ひとつの芸術品に見えた。
私は、今まで見た事の無いその凄まじく甘美な場面に放心しながら手を合わせたい神聖な気持ちになった。
泥沼から清らかに咲く蓮の花が開花した瞬間を見たようだったのだ。懸崖の上でスリップ1枚に手錠という姿に。

私は呼び名が解らない未体験の感情の大波に一人静かに溺れながら、彼女のその一部始終を見届けた。夕陽が差し出す時間帯、自宅のリビングで。

後に、この美しい女性は「安田成美」で手錠を掛けた刑事は「岸谷五朗」という名前であること、呼び名の解らなかったあの情動はどうやら「官能」に極めて近いこと、この一連のドラマは再放送であったこと、そして、人は抱えきれない感動を覚えると軽い錯乱状態というか頭が静かなパニックを起こす、ということを私は知った。

以来、この時の感情を無意識にあらゆるところで私は求めている気がする。
Wi-Fiの電波を怠ることなく探る端末機のように、頭の片隅で常時あの日の幻影を追いかけてしまっているのだ。
そして、あの情動を自分の手でも作り出せないものかと思いながら今も筆を動かしている。
相手の居ない片思いをしている気分だ。

ほんの一瞬でいい。あのfemme fataleにもう一度会いたい。